Inspire note

じぶん創りの備忘録。

雑にメモ【無自覚に尽くしている最善を見つける】

『人は、個体維持の為、自動的に最善行動を選ぶようにできている。』
らしい。

 

その言葉を目にしてから

私情を一切抜きにして

自分と、親のデータをただただ集めて
その傾向性をみていた。


すると、見事に自分へと【転写】されているな、と気付くポイントが出てきた。

 (口癖、行動の癖、感情の癖、思考の癖etc)

 

この『DNAレベルで継承された』とも言える
【転写】は
自分の"望み"の部分に入り込んでいるので
場合によっては、ものすごく根強い【呪い】とっている。

 

『変えたい、なんとかしたい、でもなぜか変わり切らない』


『うまくいってる。はずなのに、ブレイクスルーまで届かない』

 

頑張ったのに『届きそうで届かない…』という感覚が続くと
永遠に解決できないような迷宮を生み出し
自分で自分をアパシー(無気力)へと導いてしまうのだけど

その場合、この【転写による呪い】を見落としている場合があるかもしれない。

 

頑張ってもできないのではなく
自分の無計画や怠惰が原因なだけではなく
塩基配列に刻まれてきたものによる
【無自覚に尽くしている最善】が、それなのかもしれない。

 

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数々の価値観が紡がれてきた存在が『わたし』であるのは、遺伝子が証明してくれている。

 

そこで【転写】されてきたであろう
実際の動き、その根源たる価値観を整理していくと
『自分が望むもの』と『祖先によって望まれてきたもの』がミックスされたが故に、相反しているポイントが見えてくる。

 

○わたし→ある程度は、表に出ていたい
▲祖先→表にあまり出ず保守的でいたい

 

○わたし→生態系レベルでバランスを保ち生き切りたい

▲祖先→身内のことだけを考えて楽に生き切りたい

 

等々で

逆の価値観が同居しているのだけど
この二つを、同時に見たそうとする
【無自覚に尽くしている最善】が
【呪い】を産み出しているのではないか。

 

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『呪いがある』、と意識しながら
自分の望むべく方向に行ききらない自分を眺めてみると
妙なパターンや、違和感のある部分が出てくる。


そこに働く【無自覚に尽くしている最善】を観察する。
観察するときに、自分サイドの最善行動の観察だけでなく
親や祖父母の視点も含めて最善行動の観察する。

 

✅ 言うこときかなくていい、とわかってるのに
その人の言うことを聞いてしまう自分

 

✅ やるべきことがある、とわかっているのに
やるべきことより、どうでもいいことをやっている自分

 

🔯このときの自分は、何を望んでいて、どんな最善行動を無自覚に選んでいるのか?


🔯このとき、親や祖父母から受け継いだものは、何を望んでいて、どんな最善行動を無自覚に選んでいるのか?

 

すると、二つの【無自覚に尽くしている最善】が掛け合わさった結果が
いまの行動をとっている理由と意味ではないか、と見えてくる。

(素の自分×親や祖父母の価値観を継承してきた自分=この行動に行き着く自分)

 

二つの価値観をかけあわせることで
迷宮入りしていた、真の意図が見えてくる。

 

これは、【呪い】ではなく
【二つの恵み】を得ていただけなのだ。

 

自分は、自分による最善の恵みを受けていた。
DNAは、DNAによる最善の恵みを受けていた。

 

主観的には【呪い】と感じていたことは
その実、自分と自分のDNAが【相反しつつも最善を選んでいる】着地点が
『そうなっている』だけだったのだ。

 

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あとは、何をすればいいか。

あらためて

動かされている自分を観察し

動きたい自分を観察し

 

【呪い】だと思っていたものが

二つの【恵み】を与えてくれていたのだと

ゆっくりと、丁寧に確認してゆくこと。

 

『呪いにしてしまっていた呪い』を解いて

新たな【最善】を創り

未来を、より望ましく

書き換えてゆけるのだ、と

【自覚】すること。

 

有感時間の人生は、たぶん当分続くのだから

心地よく生きてきたい。

ものごとを【やり続ける】には。

ものごとを【やり続ける】のは

 

思ったよりもむずかしい。

 

なぜなら、すぐに

 

【やり続けたくなくなる】からだ。

 

 

" やり続けたくない"ことを

 

シンプルにまとめると

 

✅ 『めんどくさい』こと

 

✅ 『こわい 』こと

 

✅ 『納得いかない』こと

 

✅ 『飽きた』こと

 

という、感情に集約される。

 

 

逆に

 

"やり続けたいこと"は

 

✅ 純粋に楽しいと感じられること

 

は当たり前として

 

現実的には

 

✅ 『めんどくさい』けど、それでもやり続ける影響を社会的に感じていること

 

✅ 『こわい 』けど、とにかくやりゃあイイんだやりゃあと腹を括れたこと

 

✅ 『納得いかない』のはいまだけで、納得いくようなゴールが見えているもの

 
✅ 『飽きた』としても、コツコツ積み重ねる成果を見い出せているもの

 

という感じの感情に集約される。

 

 

 

 

やり続けたくない感情に支配されて

 

カラダが動かなくても

 

『それでも、やる』

 

『だからこそ、やる』

 

と、肚の底から思えていること

 

つまり

 

【信念】のあることだけが

 

"やりたいこと"として続く

 

推進力を持ち続けてゆく。

 

 

人間、最初はやりたいことでも

 

時間の経過とともに

 

やりたくなくなるのは、普通だ。

 

人並みの感情。人並みの反応。

 

だからこそ

 

"人並みの影響を受ける自分"が

 

"人並みをやめた自分"となってもいいと

 

《肚の底から思えた瞬間》から

 

やる理由が見つかり

 

自然発生する"やりたくない"が

 

自然と"やる"へと上書きされてゆく。

 

 

 

【やり続ける】ことは

 

【信念】によってのみ担保される。

 

【信念】は

 

自分の【肚】が教えてくれたことに

 

従うにつれ創られてゆく。

 

自分に嘘をつかない

 

純粋な問いかけを

 

自分に続けていくことで

 

【肚】を感じられるようになる。

 

 

その【肚】が教えてくれることは

 

必ずしも

 

ポジティブであるとは限らない。

 

世間の印象からしたら

 

ダメ人間の烙印を押されるような

 

ネガティブなものだったとしても

 

【肚】がそう感じているなら

 

納得いくまで、従うことだ。

 

 

『○○のせいだ!』と肚が感じているなら

 

『○○のせいだ!』と信念を持ち続けて

 

○○のせいだ、と表現をし続けてみろ。

 

徹底的に。卑怯と言われるほどに。

 

完膚なきまでに

 

何かのせいにし尽くて

 

その先にある景色を見にいけ。

 

 

 

『○○したくない!』と感じているなら

 

『○○したくない!』と信念を持ち続けて

 

○○しない自分を貫き続けろ。

 

疎み、罵り、軽蔑のシャワーを

 

いくら浴びようとも

 

変えがたい自分がかけがえない

 

いまの自分であることを感じ切れ。

 

肚の答えは、世間の答えより尊い

 

最も従う価値のある答えだ。

 

その先にある景色を見にいけ。

 

 

自分の純粋な部分に

 

自然に"在る"ものに

 

フォーカスし続けることが

 

ものごとを【やり続けられる】

 

唯一の方法だ。

食。それは、記憶をいただき巡らせる行為。



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おいしいものを食べる。

オシャレなものを食べる。

見慣れたものを食べる。

食べることは、一日1~3回できる

楽しく、しあわせな時間だ。

 

ただ、最近

『ただ、食べているだけ』

という感覚なだけの自分に

なんだか、違和感が出てきた。

 

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キレイに盛り付けられた食事にも

自分がいただくまでの、歴史がある。


普段、食事をするときに

 

咀嚼、消化され、栄養素となり

自分の血肉やエネルギーとなることには

考えはするだろうけれど


その食材が生きていた時代の

『記憶』も

自分の血肉になっていることには

あまり、思いを巡らせていない。


美味しくいただく間まで

かならず存在する事実。

あたりまえなのに

あまり考えないこと。

 

口に入れる前に

その目に映った食材の

『背景』に、思いを巡らすと

自然界の巡りと恵みと

良くも悪くも、人間の営みが

よく観えるようになってくる。

 

今回いただいた

 

サラミや生ハムも

 

どんな環境で育って

または、誰がどんな環境で育てて

 

どのように収穫、加工されて

または、食材の動物が
どんな感情をもって収穫、加工されて

 

どのような人間社会のルールを守って

どのような人間社会の都合を汲んだから

 

いま、目の前に盛り付けられて

ここで、いただけるのか。

 


そんなことを考えていると

 

豊かなようで
ありがたいようで


シリアスなようで
申し訳ないようで

 

なんとも言えない感覚が

渦巻くようになる。

 

この

 

【"なんとも言えない感覚"を

感じなくなりかけてたこと】

 

そのものが『違和感』の正体だった

と、気付く。

 

美味しいものを

当たり前に食べられるのは

当たり前のことではない。

 

豊かな自然があって

誰かの努力が継続的にあって

なりたっていることであって

 

それを

当たり前だと思いこんで

『たた、食べてるだけ』に慣れてしまうのは

不健全な感覚だ。

 

その環境に慣れかけてる自分に対して

 自分の中に残ってる

健全な自分が

『違和感』という警告を

発してくれたのだと思う。

 

自分が食べることで

多少なりとも、この"巡り"に

影響が出るのならば

 

【自分事としての食】と

『改めて、どう向き合おうか?』と

考えられるようになったら

 

違和感は、いつの間にか

消えていたのでした。

純粋な事実を観続ける。

 

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純粋な事実は

 

いつだって

 

純粋な事実として

 

"いま"に存在している。

 


いま

 

『こんなはずじゃない』

 

という

 

感覚的事実と

 

目の前の事実の

 

ギャップを感じるときは

 

事実を、事実として

そのまんま受け取れていないサイン。

 


"自分好みのフィルターを通した事実"

を見続けているから

 

 

"ただそこにある事実"は

認識されることはない。


あたりまえのことなのに

 

調子に乗ったり

調子が悪くなると

 

すぐに

 

都合のいい解釈や

沸き上がる感情に

 

引っ張られたがって

 

純粋な事実に

自分のフィルターを通して

 

ありのままの姿を

 

ねじ曲げてしまう。

 

【純粋な事実は

 

いつだって

 

純粋な事実として

 

"いま"に存在している】

 

 

まずは

 

純粋な事実を

 

純粋なまま認識すること。

 

そのあとに

 

事実について

 

判断をすることに

 

焦点を合わせ続ける。

未来の自分の書き変え方


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事実は変えられない。

 

変えられるのは

 

事実に触れた先。

 

連面と連なる『流れ』。

 

 

自分の信念、目的に

 

沿う流れを作れているか?

 

『未来化』を意識して

 

時間、経済、エネルギーを

 

投資しているか?

 

 

自分ではコントロールできない

 

第三者から与えられるチャンスが

 

『幸せになるリスク』であれば

 

つかみにいっているか?

 

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現在を変えて

 

未来を変えて

 

流れを変える。

 

未来を変えて

 

現在を変えて

 

過去すらも変わって

 

流れが変わる。

 

旧現在の自分が

 

新現在の自分に

 

書き換わる。

 

そうしてようやく

 

未来の自分が

 

本質的に書き換わる。

 

【自分の人生の究極の目的は何か?】

 

今日も淡々と問い

 

自己観察。