Inspire note

じぶん創りの備忘録。

ほんとうのわたしとしてのあなた

いまさらながら『君の名は。』をみた。

引き裂かれ、失われた半身を追い求めて繰り広げられる
人工の時間と、永遠の時間とを”むすぶ”物語。

 

『あなたに見つめられて、わたしがわたしとなるのなら…

わたしがあなたを見つめること、になることができれば…

わたしは
”ほんとうのわたしとしてのあなた”になることができる』

 

なんとなく、だけど本当はわかっているけど
いまの現実世界では確証を得られないものをみたから
『よくわかんないけど、なんか懐かしくてイイ』感じがしたのだろうな。

 

観賞後の、2時間睡眠×ワインが軽く入ってオチかけてる午前0時なう状態で
なにもまとまりのなく、虚無感に覆われていた思考の変遷を

つらつら綴ってみる。

 

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目に見える『この世』、つまり物理世界における【自分】を定めようとしたとき
現状の科学的知見でできる限り理解し続けた先にあったのは
結局人体とは、ほとんどからっぽの素粒子の集合体に精神が宿ったものであり
【自分】とは瞬間の意識だけの存在であり
本当は過去も未来もなにも存在しないという”虚無感”だけだった。

 

しかし、実感として過去も未来も実感はできる。
人間は瞬間しか認識できないのに、これはどうなってるのだろう。
そこで、これはすべて予定調和が設定されているのではないかと思い始める。

 

本当は自分のコントローラーを握っている"自分より高次の何か"がいる気がしてきて
実際に、太陽の活動と人間の社会的なイベント(疾病率、株価、社会混乱など)が連動して動いていると知る。

 

『自分は自分だ!俺は自由で主体的で能動的に動いているのだ!』と思っているが、その実動かされているだけという【滑稽な自分】を感じるようになり
やがて"自由と感じることすらコントロール下にある"(コントローラーの持ち主を特定できないように設計されている)という確信を強め
この現実は、臨場感のあるヴァーチャルリアリティの人形劇なのだ、と
さらに虚無感は強まる一方だ。

 

"本質的な主体性"などというものはなく、すべては予定調和なままだという実感だけが残りつつ日常を過ごし
どうしようもない空虚な感覚を小脇に抱えて味わいながら、ここ二年を過ごしていた。

 

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しかし、今年のラスト四半期にきて
この"虚無感"の存在意味(なにもない、ことがあることの意味)がわかってきた。

 

この虚無感は、物理世界を観る先でぶつかる”壁”だったのだ。
物理世界を認識しきった”終点”として、意味のある”虚無”だったのだ。

 

この虚無感を得たからこそ、この地点の観かたを反転させた世界に
”いままで捉えられなかった世界”を認識できるようになる。

 

目に見えるヴァーチャルリアリティの物理世界は
人工的な時計の進みに強く固定された、『人間の人間によるゲシュタルト』の世界。
行き着く先は”虚無”。

 

それとはまた別に、確かに存在する精神世界・情報の世界があって
時間の流れが永遠に続き、実態もない世界…
強いていうなら『霊の人間によるゲシュタルト』の世界が存在しており
こちらの行き着く先は”創造”、そして”創発”で機能を産み出すことであると仮定している。

 

前者は、自分の視点でのみモノゴトを視ることになるが
後者は、相手の視点も自分の視点も移動自由な状態でモノゴトを視ることになる。

 

前者は、何か大いなるもの(例えるなら、神)によって、わたしもこの世界も動いていると捉えるが
後者は、何か大いなるものはわたしの中にある一部と全部として動いていると捉えるようになる。

 

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永らくの虚無は無意味ではなかった。
これを理解するためにあったのだろう。

 

物理世界に精神世界が支配される”場”のゲシュタルトから
精神・情報世界によって物理世界を拡張・機能をもつ”場”のゲシュタルトへ。

 

色即是空から

空即是色へ。

 

見つめられる一方の側から
見つめながら見つめられる側へ。

 

動かされる側から

動き、動きあい、動いていく側へ。

 

”感じるを越えて考える”世界へ、シフトする。