問いなおし。
支援、サポートって文字を見かけるたびに
『そうだそうだ!』とは思うんだけど
『そうだそうだ!』って野次ってる時間を、個人的に日常範囲で動くことに充てて
"こうなった"って事例を積むことが
一番のサポートになると、自分でわかってるはずだ。
【その"サポートしたい"は、本当か?】
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人でも動物でも、あまりにも酷い事例を目にすると
『救いたい!なんとかしたい!』って、切なく歯がゆく感じるけど
『救いたい!なんとかしたい!』って感傷に浸ってる時間なんてないままに
"体が勝手に動いてる"ときは、自分にあったろうか?
【その"救いたい"は、本当か?】
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サポートする側のイシューって、どれも似通ってるのに解決してる感じ薄いなぁ、とか
貧困や卑怯な手口で、性の搾取が起きててひでぇなぁとか
"たまたま目に入ってきた"そんな記事をみてたら、自省の気持ちが湧いてきた。
自分ができることなんて、ほとんどないのに
『なんとかならないかな』と沸き上がっている、無責任な"なんちゃって同調意識"。
我ながら、バカなんじゃないかと。
と同時に
自分にできることなんて、たいしてないからこそ
そのできることを、"貴重な資源"として扱わなきゃいけないなと思い直した今日この頃。
"本当に、本当"なのか?
それとも
"同情パフォーマンス"なのか?
有限で貴重な資源である
【 主体性】を、問う。