Inspire note

じぶん創りの備忘録。

ものごとを【やり続ける】には。

ものごとを【やり続ける】のは

 

思ったよりもむずかしい。

 

なぜなら、すぐに

 

【やり続けたくなくなる】からだ。

 

 

" やり続けたくない"ことを

 

シンプルにまとめると

 

✅ 『めんどくさい』こと

 

✅ 『こわい 』こと

 

✅ 『納得いかない』こと

 

✅ 『飽きた』こと

 

という、感情に集約される。

 

 

逆に

 

"やり続けたいこと"は

 

✅ 純粋に楽しいと感じられること

 

は当たり前として

 

現実的には

 

✅ 『めんどくさい』けど、それでもやり続ける影響を社会的に感じていること

 

✅ 『こわい 』けど、とにかくやりゃあイイんだやりゃあと腹を括れたこと

 

✅ 『納得いかない』のはいまだけで、納得いくようなゴールが見えているもの

 
✅ 『飽きた』としても、コツコツ積み重ねる成果を見い出せているもの

 

という感じの感情に集約される。

 

 

 

 

やり続けたくない感情に支配されて

 

カラダが動かなくても

 

『それでも、やる』

 

『だからこそ、やる』

 

と、肚の底から思えていること

 

つまり

 

【信念】のあることだけが

 

"やりたいこと"として続く

 

推進力を持ち続けてゆく。

 

 

人間、最初はやりたいことでも

 

時間の経過とともに

 

やりたくなくなるのは、普通だ。

 

人並みの感情。人並みの反応。

 

だからこそ

 

"人並みの影響を受ける自分"が

 

"人並みをやめた自分"となってもいいと

 

《肚の底から思えた瞬間》から

 

やる理由が見つかり

 

自然発生する"やりたくない"が

 

自然と"やる"へと上書きされてゆく。

 

 

 

【やり続ける】ことは

 

【信念】によってのみ担保される。

 

【信念】は

 

自分の【肚】が教えてくれたことに

 

従うにつれ創られてゆく。

 

自分に嘘をつかない

 

純粋な問いかけを

 

自分に続けていくことで

 

【肚】を感じられるようになる。

 

 

その【肚】が教えてくれることは

 

必ずしも

 

ポジティブであるとは限らない。

 

世間の印象からしたら

 

ダメ人間の烙印を押されるような

 

ネガティブなものだったとしても

 

【肚】がそう感じているなら

 

納得いくまで、従うことだ。

 

 

『○○のせいだ!』と肚が感じているなら

 

『○○のせいだ!』と信念を持ち続けて

 

○○のせいだ、と表現をし続けてみろ。

 

徹底的に。卑怯と言われるほどに。

 

完膚なきまでに

 

何かのせいにし尽くて

 

その先にある景色を見にいけ。

 

 

 

『○○したくない!』と感じているなら

 

『○○したくない!』と信念を持ち続けて

 

○○しない自分を貫き続けろ。

 

疎み、罵り、軽蔑のシャワーを

 

いくら浴びようとも

 

変えがたい自分がかけがえない

 

いまの自分であることを感じ切れ。

 

肚の答えは、世間の答えより尊い

 

最も従う価値のある答えだ。

 

その先にある景色を見にいけ。

 

 

自分の純粋な部分に

 

自然に"在る"ものに

 

フォーカスし続けることが

 

ものごとを【やり続けられる】

 

唯一の方法だ。

食。それは、記憶をいただき巡らせる行為。



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おいしいものを食べる。

オシャレなものを食べる。

見慣れたものを食べる。

食べることは、一日1~3回できる

楽しく、しあわせな時間だ。

 

ただ、最近

『ただ、食べているだけ』

という感覚なだけの自分に

なんだか、違和感が出てきた。

 

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キレイに盛り付けられた食事にも

自分がいただくまでの、歴史がある。


普段、食事をするときに

 

咀嚼、消化され、栄養素となり

自分の血肉やエネルギーとなることには

考えはするだろうけれど


その食材が生きていた時代の

『記憶』も

自分の血肉になっていることには

あまり、思いを巡らせていない。


美味しくいただく間まで

かならず存在する事実。

あたりまえなのに

あまり考えないこと。

 

口に入れる前に

その目に映った食材の

『背景』に、思いを巡らすと

自然界の巡りと恵みと

良くも悪くも、人間の営みが

よく観えるようになってくる。

 

今回いただいた

 

サラミや生ハムも

 

どんな環境で育って

または、誰がどんな環境で育てて

 

どのように収穫、加工されて

または、食材の動物が
どんな感情をもって収穫、加工されて

 

どのような人間社会のルールを守って

どのような人間社会の都合を汲んだから

 

いま、目の前に盛り付けられて

ここで、いただけるのか。

 


そんなことを考えていると

 

豊かなようで
ありがたいようで


シリアスなようで
申し訳ないようで

 

なんとも言えない感覚が

渦巻くようになる。

 

この

 

【"なんとも言えない感覚"を

感じなくなりかけてたこと】

 

そのものが『違和感』の正体だった

と、気付く。

 

美味しいものを

当たり前に食べられるのは

当たり前のことではない。

 

豊かな自然があって

誰かの努力が継続的にあって

なりたっていることであって

 

それを

当たり前だと思いこんで

『たた、食べてるだけ』に慣れてしまうのは

不健全な感覚だ。

 

その環境に慣れかけてる自分に対して

 自分の中に残ってる

健全な自分が

『違和感』という警告を

発してくれたのだと思う。

 

自分が食べることで

多少なりとも、この"巡り"に

影響が出るのならば

 

【自分事としての食】と

『改めて、どう向き合おうか?』と

考えられるようになったら

 

違和感は、いつの間にか

消えていたのでした。

純粋な事実を観続ける。

 

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純粋な事実は

 

いつだって

 

純粋な事実として

 

"いま"に存在している。

 


いま

 

『こんなはずじゃない』

 

という

 

感覚的事実と

 

目の前の事実の

 

ギャップを感じるときは

 

事実を、事実として

そのまんま受け取れていないサイン。

 


"自分好みのフィルターを通した事実"

を見続けているから

 

 

"ただそこにある事実"は

認識されることはない。


あたりまえのことなのに

 

調子に乗ったり

調子が悪くなると

 

すぐに

 

都合のいい解釈や

沸き上がる感情に

 

引っ張られたがって

 

純粋な事実に

自分のフィルターを通して

 

ありのままの姿を

 

ねじ曲げてしまう。

 

【純粋な事実は

 

いつだって

 

純粋な事実として

 

"いま"に存在している】

 

 

まずは

 

純粋な事実を

 

純粋なまま認識すること。

 

そのあとに

 

事実について

 

判断をすることに

 

焦点を合わせ続ける。

未来の自分の書き変え方


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事実は変えられない。

 

変えられるのは

 

事実に触れた先。

 

連面と連なる『流れ』。

 

 

自分の信念、目的に

 

沿う流れを作れているか?

 

『未来化』を意識して

 

時間、経済、エネルギーを

 

投資しているか?

 

 

自分ではコントロールできない

 

第三者から与えられるチャンスが

 

『幸せになるリスク』であれば

 

つかみにいっているか?

 

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現在を変えて

 

未来を変えて

 

流れを変える。

 

未来を変えて

 

現在を変えて

 

過去すらも変わって

 

流れが変わる。

 

旧現在の自分が

 

新現在の自分に

 

書き換わる。

 

そうしてようやく

 

未来の自分が

 

本質的に書き換わる。

 

【自分の人生の究極の目的は何か?】

 

今日も淡々と問い

 

自己観察。

 

 

 

『善意の行為』らしきこと、をやったときに考えたことメモ。


今日は

健診と、市議会のチェックと

ホワイトデーの買い出しのため

しぞーかの街中へ。


胸部X線を受ける。

体内に、活性酸素が大量発生し

5分もすれば全身に巡りはじめ

じわじわと、気分が悪くなってくる。

倒れるほどではないが

なんとなくだるいカラダを引きずり

強風の街中を歩く。


人も車もよく通る裏道で

飲食店のメニュー黒板が倒れていた。

手前でハザードをたいてる車の人も

すれ違う多くの人も

その誰しもが

”わかっているけれど”

その光景を傍観している。

『ただ立て直すだけなのになぁ』

そう思いつつも

一瞬、素通りしそうになった。

(「傍観者側の引力に引っ張られてる!」)

バツの悪い感じがして

立ち止まり

メニュー黒板を直しておいた。

俺は

『すこしいい気分』

に、なることができた。


まだ、強風は吹いている。

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この行為は

おそらく『善意の行為』にあたるのだろう。

しかし、この『善意の行為』らしきものに

妙な違和感が残った。

なんだろう。考えてみる。


①強風が吹き続けているのだから。

黒板は、また倒れる可能性が高い。

立て直した行為は

わずか1分後に

”無意味”となる可能性がある。

店主としても、お客さんとしても

黒板が倒れていることで

PR効果がなくなっていることに

変化はない。

このパターンの【成果】は

『無意味だった行為に対して
自己満足を感じている自分の盲目さ』

のみとなる。

 

②仮に黒板が倒れなかったとしたら。

『善意の行為』は、俺の目論み通り

【成果】としてあらわれることになる。

しかし、それと同時に

【店主が強風対策を練る機会】を

一度、逃す行為にもなっている。

倒れていることに気付いていれば

店主は

”もう倒れない対策”を練り

より継続的なPR効果を発揮する

発見ができたかもしれない。

そちらのほうが

通りすがりの誰かが直すより

PR効果を持続させるには

確実な対策だ。

そうと気付くのを

遅らせてしまった可能性も

否定はできない。

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そんな考えを巡らせていたら

俺が反射的にやったことは

『善意の行為(?)』

であることがわかる。

 

シュレーディンガーの猫だ。

その行く末は

【”観測”されてはじめて

"事実"として定まる】ものだ。

だけれども

『善意の行為(?)』は

無条件に、それだけで

まるで

”既に善い結果を及ぼした”かのように

扱われる性質を持つ。

 

その証拠に、俺は

いつのまにか

『少しイイ気分』

に、なっている。

事実がまだ定まっていないのに

あたかも

成果が出たかのように扱ってしまう

強い、強いバイアスがかかっている。

本当は違うかもしれないのに

勝手に決めつけてしまうのは

あまり、望ましい状態とはいえない。

 

『善意の行為』については

自分がやりたがることだけでなく

世にあまたに存在することにも

『(?)』がつくことを

前提に置いておきたい。

脊髄反射

”善い成果が出た”と扱うことなく

『本当に、そうなのだろうか?』

という問いを

念のため、はさんでおきたい。

 

なにが、どのように

”観測”されて

”事実”となり

”記憶”として

”蓄積”されるのか。

ものごとは

多面的なものであることを忘れず

あたりまえの

バイアスに引っ張られることなく

ていねいに、見定めていこう。

なんてことを

倒れた黒板が

気付かせてくれたのでした。