ちゃんとぼーっとする。
漠然としたイマイチ感に包まれ、自分が日に日にダメになっているような気分に包まれて過ごしていたら
朝起きても、何もワクワクできなくなってなっていた。
そんないまの自分に足りなかったのは
『ちゃんとぼーっとする』時間でした。
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『こうあるべき、こうありたい
だから○○をやるんだ!』
ワクワクする感覚で、最初は形があったはずの"きれいな目的"は
日々の外部の刺激によって、少しずつ削れたり
日々の外部の介入によって、少しずつ足されたりして
理想的な原形を、無自覚なまま失ってゆく。
その現象がおきる毎度を認識できるほど、大きな自覚は感じられないから
"きれいな目的"を抱えてたはずが、気付いたら"きれいな目的もどき"を大事に抱えて過ごしてしまっている。
だから『なんかモヤモヤ』する。
だから『なんか違う』気がする。
だから『これじゃない』と感じる。
また違うことを"きれいな目的"にしたくなる。
あったはずの"きれいな目的"がワルモノになってしまう。
違う、違うよ。
それじゃあ、何の解決にもならないんだよ。
元々、自分の中には確かにあった"きれいな目的"に向かう道を、素直に選びきれずに
"きれいな目的もどき"を甘んじて受け入れ、さらにそれを次の目的にしてしまった
"なぁなぁ"な自分がいるからだよ。
そこに気付けなければ、あったはずの"きれいな目的"を追いかける楽しい日々は
時間が経てば経つほど"きれいな目的もどきもどきもどきもどき…∞"を創るだけの意味のわからない日々になっていってしまうんだよ。
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『ちゃんとぼーっとする』と、その削れたり足されたピースたちにフォーカスすることができる感覚がある。
一個一個、認識して
"本当に削ったほうがいいのか?"
"本当に足したほうがいいのか?"
って確認しながら丁寧に問い直せるから
知らずに描きかわっていた部分の整理がつく。
きっちりと"きれいな目的"に沿っていれば
その過程で、ストレス発散という名の無駄な遊び、睡眠、リフレッシュも必要ないし
その過程の致し方ない夜更かしも、ハードスケジュールにも腹を括れる。
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目的に向かってやってるはずなのに、何かが違うと思ったら
『ちゃんとぼーっとしてみる』こと。
淡々と整理していけば、また最初のワクワクも、いつのまにか戻ってきて
"きれいな目的"に楽しく向かっていける自分になれる。
と思った今日この頃。