いつか、”じぶん”ができるまで。

未完のまま永遠に続く、じぶん創りの備忘録。

食。それは、記憶をいただき巡らせる行為。



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おいしいものを食べる。

オシャレなものを食べる。

見慣れたものを食べる。

食べることは、一日1~3回できる

楽しく、しあわせな時間だ。

 

ただ、最近

『ただ、食べているだけ』

という感覚なだけの自分に

なんだか、違和感が出てきた。

 

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キレイに盛り付けられた食事にも

自分がいただくまでの、歴史がある。


普段、食事をするときに

 

咀嚼、消化され、栄養素となり

自分の血肉やエネルギーとなることには

考えはするだろうけれど


その食材が生きていた時代の

『記憶』も

自分の血肉になっていることには

あまり、思いを巡らせていない。


美味しくいただく間まで

かならず存在する事実。

あたりまえなのに

あまり考えないこと。

 

口に入れる前に

その目に映った食材の

『背景』に、思いを巡らすと

自然界の巡りと恵みと

良くも悪くも、人間の営みが

よく観えるようになってくる。

 

今回いただいた

 

サラミや生ハムも

 

どんな環境で育って

または、誰がどんな環境で育てて

 

どのように収穫、加工されて

または、食材の動物が
どんな感情をもって収穫、加工されて

 

どのような人間社会のルールを守って

どのような人間社会の都合を汲んだから

 

いま、目の前に盛り付けられて

ここで、いただけるのか。

 


そんなことを考えていると

 

豊かなようで
ありがたいようで


シリアスなようで
申し訳ないようで

 

なんとも言えない感覚が

渦巻くようになる。

 

この

 

【"なんとも言えない感覚"を

感じなくなりかけてたこと】

 

そのものが『違和感』の正体だった

と、気付く。

 

美味しいものを

当たり前に食べられるのは

当たり前のことではない。

 

豊かな自然があって

誰かの努力が継続的にあって

なりたっていることであって

 

それを

当たり前だと思いこんで

『たた、食べてるだけ』に慣れてしまうのは

不健全な感覚だ。

 

その環境に慣れかけてる自分に対して

 自分の中に残ってる

健全な自分が

『違和感』という警告を

発してくれたのだと思う。

 

自分が食べることで

多少なりとも、この"巡り"に

影響が出るのならば

 

【自分事としての食】と

『改めて、どう向き合おうか?』と

考えられるようになったら

 

違和感は、いつの間にか

消えていたのでした。