Inspire note

じぶん創りの備忘録。

【読書メモ】良い質問とは。


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良い質問とは、正しい答えを求めるものではない。


良い質問とは、すぐには答えが見つからない。


良い質問とは、現在の答えに挑むものだ。


良い質問とは、ひとたび聞くとすぐに答えが知りたくなるが、その質問を聞くまではそれについて考えてもみなかったようなものだ。

 

良い質問とは、思考の正しい領域を創り出すものだ。


良い質問とは、その答えの枠組み自体を変えてしまうものだ。


良い質問とは、科学やテクノロジーやアートや政治やビジネスにおけるイノベーションの種になるものだ。


良い質問とは、深針であり、「もし~だったら」というシナリオを調べるものだ。


良い質問とは、ばかげたものでも答えが明白なものでもなく、知られていることと知られていないことの狭間にあるものだ。


良い質問とは、予想もしない質問だ。

 

良い質問とは、教養のある人の証だ。


良い質問とは、さらに他の良い質問をたくさん生み出すものだ。


良い質問とは、マシンが最後までできないかもしれないものだ。


良い質問とは、人間だからこそできるものだ。

 

【<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則】NHK出版

ケヴィン・ケリー 著 服部桂

(P380~381より引用)

 

質問は、思考領域においての
”水”のようなものだなぁ、と思った。

自己全体だけでなく、環境全体を”循環”するもの。
その質が悪ければすべてが悪くなり、良ければすべてが良くなるサイクルを生み出す。
あるのが当たり前すぎて、あまりありがたみを感じられてないけれど
なければ何もできなくなることや、汚れすぎて使えず必要にかられてから
はじめて『思考の根幹を成すものだったんだ』だと気づく。

悪い質問のサイクルは、早めに断ち切り
良い質問のサイクルを、絶えず自己へも他者へも向けてゆく。

たった10数年後の、信じられない未来

人類80億人全員の"脳"を集めた以上の性能を持つ「人工知性」が、2045年には生まれる。(未来学者 レイ・カーツワイル氏談)
 
それを下支えするスパコンの性能が、予想より早いスピードで向上しており
2030年にはそれが実現するだろうといわれている。
(日本人では、齊藤 元章氏のPezy社が最も進んでいる)
 
【総人類の脳ミソが、6ℓの容器に収まる】時代が
たった十数年で訪れることになる。
 
人間を超える知性が誕生すると、「仮説検証」の回数が膨大な数になる。
今のように、どうなるかわからないことに勇気を振り絞って取り組み
ひとつひとつ成功と失敗を繰り返し、泥臭い仮説検証をする必要がなくなってくる。
 
仮想空間に現実のシミュレーション空間を作り、そこで「よりよい結論」をより早く導き出し、この物理世界に適用することができる。
 
新しい発見が増える。
よりよい方法が増える。
「物理世界での失敗がよりなくなり、成功がより増える」とも言える。

マクロに拡大してゆけば、SFの世界になる。

労働から解放される。
エネルギーがフリーになる。
食料がフリーになる。
世界平和が実現される。
貨幣による経済が終わる。
宇宙への移住が実現する。
病気がなくなり、寿命がなくなる。

あたりまえの変化として、人間の社会構造がガラっと変わることになり
人間としての各々の役割も、いまのようなカタチではなくなり
まだ見ぬ”新しい役割”を担うことになる。

それが何かは、さすがにその時にならないとわからないが
ある人は”人類総アーティスト化”と表現していた。
 
この時代を乗りこなせるか乗りこなせないかは
おそらく、今の過ごし方に大きく左右される。
 
人間にしかもっていない、人間にしか割り当てられていない
「やらずにはいられない」という
【情熱・興味・好奇心】を第一に掲げていく生活をしてゆくことが
最も重要になってくるだろう。

fbで「いいね!」している自分を観察してみる


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いつもたいして考えずに、軽い気持ちで押してる

fbのアクション「*いいね!」だけど
そのとき、自分はどうなっているのだろう?と、ふと思った。
(*今は多少の感情表現はできるようになったものの、つい最近まで選択肢はひとつだった。)

 

fbのフィードをみていると、なんとなく押してる。
だけど、よくよく自分の内側を観察してみると
その「いいね!」ひとつに渦巻く感覚は様々だ。

 

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<フツーのとき>
・友達の記事に”見たよ!”的な「いいね!」
・師匠的存在に”あざっす!”的な「いいね!」
・何かを訴え掛けたい記事に”わかったよ”的ないいね
・オモシロイ、キレイな写真に脊髄反射して「いいね!」

てな、フラットな感じで「いいね!」している。


まぁまぁ、これは普通な感じ。

 

基本、自分がホントに「いいね!」と思って押すと
こちらにもホントに「いいね!」と思って押してもらえる率は高まる(と思いたい)ので
感じたままに「いいね!」している。

 

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なので、エネルギーのこもっていない
・いいねの数増やし狙いの、返報性の法則に沿った「戦術的いいね!」
・よく記事見てもないけど、しとかなきゃと思ったからする「義理いいね!」

 

を、なるべくしないようにしている。不毛だからだ。


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ただ、<見るだけでスルー>するときも…
・そもそも、ドーデモイイ内容なのが見ずにわかるのでしない
・したいけど、「いいね!」が少ないとしづらさを感じてしない
・妙な”圧力”が強いなと感じる投稿は、見るけど「いいね!」したくない

てな感じのときもある。

 


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あとは、たまに<媚を売る>w
・密かに尊敬していて、リアクションほしい人への「いいね!」

 

ちょっぴり交流できるかも、と期待してしまう自分がいるからこそ
それで「いいね!」をいただいたときに
”よっしゃー!”みたいな気持ちになるw

 

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たったひとつの「いいね!」を押すというアクションでも
少し思い返しただけで、これだけの”感覚の動き”が見てとれる。

 

自分と相手の立場を反転して考えると
もらったこちらには「いいね!」の数としてしか見ることはできないけれど
自分のつぶやいたことに対してへの「いいね!」にも、いろんな感覚が渦巻いてるんだろうな、と。


自他ともに、どうでもいい想いで押された、動きのない「いいね!」は

押すのも押されるのも”動きがあるようで何もない”から、少なくしていけたらいいな、と思う。

 

逆に、共感できて味わい深かった・知らなくて驚いた・勉強と参考になった等の
”与えてもらえたありがたみの想い”ありきで押した、ほんとの「いいね!」で満たされていたら、いいなと思う。

 

その先には、オンライン交流だけではなく
リアルでもこの「いいね!」にまつわるトークを沢山できるから
ちょっとした意識次第で、"拡がり"のあるものにしてゆけるんだろうな。

 

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自分を観察することは、思いの外発見があってオモシロイ。

「いいね!」に”いいね!”

ほんとうのわたしとしてのあなた

いまさらながら『君の名は。』をみた。

引き裂かれ、失われた半身を追い求めて繰り広げられる
人工の時間と、永遠の時間とを”むすぶ”物語。

 

『あなたに見つめられて、わたしがわたしとなるのなら…

わたしがあなたを見つめること、になることができれば…

わたしは
”ほんとうのわたしとしてのあなた”になることができる』

 

なんとなく、だけど本当はわかっているけど
いまの現実世界では確証を得られないものをみたから
『よくわかんないけど、なんか懐かしくてイイ』感じがしたのだろうな。

 

観賞後の、2時間睡眠×ワインが軽く入ってオチかけてる午前0時なう状態で
なにもまとまりのなく、虚無感に覆われていた思考の変遷を

つらつら綴ってみる。

 

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目に見える『この世』、つまり物理世界における【自分】を定めようとしたとき
現状の科学的知見でできる限り理解し続けた先にあったのは
結局人体とは、ほとんどからっぽの素粒子の集合体に精神が宿ったものであり
【自分】とは瞬間の意識だけの存在であり
本当は過去も未来もなにも存在しないという”虚無感”だけだった。

 

しかし、実感として過去も未来も実感はできる。
人間は瞬間しか認識できないのに、これはどうなってるのだろう。
そこで、これはすべて予定調和が設定されているのではないかと思い始める。

 

本当は自分のコントローラーを握っている"自分より高次の何か"がいる気がしてきて
実際に、太陽の活動と人間の社会的なイベント(疾病率、株価、社会混乱など)が連動して動いていると知る。

 

『自分は自分だ!俺は自由で主体的で能動的に動いているのだ!』と思っているが、その実動かされているだけという【滑稽な自分】を感じるようになり
やがて"自由と感じることすらコントロール下にある"(コントローラーの持ち主を特定できないように設計されている)という確信を強め
この現実は、臨場感のあるヴァーチャルリアリティの人形劇なのだ、と
さらに虚無感は強まる一方だ。

 

"本質的な主体性"などというものはなく、すべては予定調和なままだという実感だけが残りつつ日常を過ごし
どうしようもない空虚な感覚を小脇に抱えて味わいながら、ここ二年を過ごしていた。

 

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しかし、今年のラスト四半期にきて
この"虚無感"の存在意味(なにもない、ことがあることの意味)がわかってきた。

 

この虚無感は、物理世界を観る先でぶつかる”壁”だったのだ。
物理世界を認識しきった”終点”として、意味のある”虚無”だったのだ。

 

この虚無感を得たからこそ、この地点の観かたを反転させた世界に
”いままで捉えられなかった世界”を認識できるようになる。

 

目に見えるヴァーチャルリアリティの物理世界は
人工的な時計の進みに強く固定された、『人間の人間によるゲシュタルト』の世界。
行き着く先は”虚無”。

 

それとはまた別に、確かに存在する精神世界・情報の世界があって
時間の流れが永遠に続き、実態もない世界…
強いていうなら『霊の人間によるゲシュタルト』の世界が存在しており
こちらの行き着く先は”創造”、そして”創発”で機能を産み出すことであると仮定している。

 

前者は、自分の視点でのみモノゴトを視ることになるが
後者は、相手の視点も自分の視点も移動自由な状態でモノゴトを視ることになる。

 

前者は、何か大いなるもの(例えるなら、神)によって、わたしもこの世界も動いていると捉えるが
後者は、何か大いなるものはわたしの中にある一部と全部として動いていると捉えるようになる。

 

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永らくの虚無は無意味ではなかった。
これを理解するためにあったのだろう。

 

物理世界に精神世界が支配される”場”のゲシュタルトから
精神・情報世界によって物理世界を拡張・機能をもつ”場”のゲシュタルトへ。

 

色即是空から

空即是色へ。

 

見つめられる一方の側から
見つめながら見つめられる側へ。

 

動かされる側から

動き、動きあい、動いていく側へ。

 

”感じるを越えて考える”世界へ、シフトする。

 

 

ちゃんとぼーっとする。


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漠然としたイマイチ感に包まれ、自分が日に日にダメになっているような気分に包まれて過ごしていたら

朝起きても、何もワクワクできなくなってなっていた。

 

そんないまの自分に足りなかったのは

『ちゃんとぼーっとする』時間でした。

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『こうあるべき、こうありたい
だから○○をやるんだ!』
ワクワクする感覚で、最初は形があったはずの"きれいな目的"は
日々の外部の刺激によって、少しずつ削れたり
日々の外部の介入によって、少しずつ足されたりして
理想的な原形を、無自覚なまま失ってゆく。

その現象がおきる毎度を認識できるほど、大きな自覚は感じられないから
"きれいな目的"を抱えてたはずが、気付いたら"きれいな目的もどき"を大事に抱えて過ごしてしまっている。

だから『なんかモヤモヤ』する。
だから『なんか違う』気がする。
だから『これじゃない』と感じる。
また違うことを"きれいな目的"にしたくなる。

あったはずの"きれいな目的"がワルモノになってしまう。

違う、違うよ。
それじゃあ、何の解決にもならないんだよ。

元々、自分の中には確かにあった"きれいな目的"に向かう道を、素直に選びきれずに
"きれいな目的もどき"を甘んじて受け入れ、さらにそれを次の目的にしてしまった
"なぁなぁ"な自分がいるからだよ。

そこに気付けなければ、あったはずの"きれいな目的"を追いかける楽しい日々は
時間が経てば経つほど"きれいな目的もどきもどきもどきもどき…∞"を創るだけの意味のわからない日々になっていってしまうんだよ。

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『ちゃんとぼーっとする』と、その削れたり足されたピースたちにフォーカスすることができる感覚がある。

一個一個、認識して
"本当に削ったほうがいいのか?"
"本当に足したほうがいいのか?"
って確認しながら丁寧に問い直せるから
知らずに描きかわっていた部分の整理がつく。

きっちりと"きれいな目的"に沿っていれば
その過程で、ストレス発散という名の無駄な遊び、睡眠、リフレッシュも必要ないし
その過程の致し方ない夜更かしも、ハードスケジュールにも腹を括れる。

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目的に向かってやってるはずなのに、何かが違うと思ったら
『ちゃんとぼーっとしてみる』こと。

淡々と整理していけば、また最初のワクワクも、いつのまにか戻ってきて
"きれいな目的"に楽しく向かっていける自分になれる。

と思った今日この頃。