fbで「いいね!」している自分を観察してみる
いつもたいして考えずに、軽い気持ちで押してる
fbのアクション「*いいね!」だけど
そのとき、自分はどうなっているのだろう?と、ふと思った。
(*今は多少の感情表現はできるようになったものの、つい最近まで選択肢はひとつだった。)
fbのフィードをみていると、なんとなく押してる。
だけど、よくよく自分の内側を観察してみると
その「いいね!」ひとつに渦巻く感覚は様々だ。
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<フツーのとき>
・友達の記事に”見たよ!”的な「いいね!」
・師匠的存在に”あざっす!”的な「いいね!」
・何かを訴え掛けたい記事に”わかったよ”的ないいね
・オモシロイ、キレイな写真に脊髄反射して「いいね!」
てな、フラットな感じで「いいね!」している。
まぁまぁ、これは普通な感じ。
基本、自分がホントに「いいね!」と思って押すと
こちらにもホントに「いいね!」と思って押してもらえる率は高まる(と思いたい)ので
感じたままに「いいね!」している。
なので、エネルギーのこもっていない
・いいねの数増やし狙いの、返報性の法則に沿った「戦術的いいね!」
・よく記事見てもないけど、しとかなきゃと思ったからする「義理いいね!」
を、なるべくしないようにしている。不毛だからだ。
ただ、<見るだけでスルー>するときも…
・そもそも、ドーデモイイ内容なのが見ずにわかるのでしない
・したいけど、「いいね!」が少ないとしづらさを感じてしない
・妙な”圧力”が強いなと感じる投稿は、見るけど「いいね!」したくない
てな感じのときもある。
あとは、たまに<媚を売る>w
・密かに尊敬していて、リアクションほしい人への「いいね!」
ちょっぴり交流できるかも、と期待してしまう自分がいるからこそ
それで「いいね!」をいただいたときに
”よっしゃー!”みたいな気持ちになるw
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たったひとつの「いいね!」を押すというアクションでも
少し思い返しただけで、これだけの”感覚の動き”が見てとれる。
自分と相手の立場を反転して考えると
もらったこちらには「いいね!」の数としてしか見ることはできないけれど
自分のつぶやいたことに対してへの「いいね!」にも、いろんな感覚が渦巻いてるんだろうな、と。
自他ともに、どうでもいい想いで押された、動きのない「いいね!」は
押すのも押されるのも”動きがあるようで何もない”から、少なくしていけたらいいな、と思う。
逆に、共感できて味わい深かった・知らなくて驚いた・勉強と参考になった等の
”与えてもらえたありがたみの想い”ありきで押した、ほんとの「いいね!」で満たされていたら、いいなと思う。
その先には、オンライン交流だけではなく
リアルでもこの「いいね!」にまつわるトークを沢山できるから
ちょっとした意識次第で、"拡がり"のあるものにしてゆけるんだろうな。
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自分を観察することは、思いの外発見があってオモシロイ。
「いいね!」に”いいね!”